page.26 「遺す」
まず始めに、私は協調性の塊みたいな人間です。
小学生の頃はよく学級委員を任せられました。
同年代の子達と比べて、落ち着きがあったからかな。
周囲に配慮して、小学生ながらも空気を読みまくって上手く立ち回っていました。
冷静で小学生らしくない、大人びた子だったと思います。
中学生の頃は野球部のキャプテンを任せられました。
ただ、人には優しく自分に厳しい性格のため、チームメイトに言いたいことも言えず。
なんでそんなヤツがキャプテンになんかなったんだろう。
先生の中でも良い子で通ってたからかな。
高校生の頃は生徒会長を務めました。
ぶっちゃけ、進路を有利にするために生徒会へ入っただけ。
なのに無理矢理他薦され、気が付けば生徒会長に。
周りにお願いするのが苦手だったから、自分でほとんど生徒会の仕事をしてました。
専門の頃は卒業生代表で答辞を任されました。
自分より良い就職先が決まっている人なんてウジャウジャいるんですよ。
ただ、みんな辞退したため、断らなさそうな自分のところへ最終的にバトンパス。
もちろん断れない性格のため、渋々ながらも役をこなしました。
こうやって振り返ってみると、自分がどんな性格かよく分かるなぁ。
本当に周囲に合わせることが得意。
「THE・協調性マン」ですわ。
裏を返せば、常に人の顔色を伺って生きてきた人。
小さい頃から始まり、社会人や所帯を持った今でも変わらず。
それって、結局は自我を押し殺して上手く立ち回ってるだけ。
周りがよければ、自分のことはいいんだって。
ホント、自分らしさが無いんですよ。
結果、写真にもそれが反映されてる感じがするんですよね。
それなら、自分はどうやって写真を撮っていけばいいんだろうか。
意識して「なんとなく良い写真」を撮ろうとするから、中途半端に心に響かない写真ばかりになってしまう。
かといって無意識で撮影すると、それはそれでボツ写真を量産してしまう。
うん、もどかしい。ただただもどかしい。
自分なりの解決策というわけではないのですが、とりあえず思い付いたことが1つ。
没個性の塊のような自分が何を見てきたのか。
そんな自分が見てきたものを「残す」のではなく「遺す」という意識で写真を撮っていきたいなと思います。
固定観念にとらわれて、無理に「キレイ」や「カッコいい」写真を撮ろうとしない。
自分なりに遺していく中、たまたま「心に響く写真」があったらないいなくらいの気持ちです。
今後はそういうスタンスで写真を撮っていきたいなと思います。
なんか訳の分からない、所々支離滅裂で、大して面白くない、自分の中にあるモヤモヤした思いを書いてしまいました。
そして、言いたいことの半分も書き起こせていないという…もっと文書能力を磨かないとなぁ〜
そんな文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。
決して病んでいるわけではないので、心配しないでくださいね(笑)
こんなワケワカメな私ですが、今後も皆様お付き合いいただけましたら幸いです。